商品のご案内 山賊焼

信州名物 山賊焼

SANZOKU YAKI

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本郷鶏肉の
山賊焼

皆様に愛される山賊焼。
長年の想いを込めて
毎日丁寧に手づくりしています。

本郷鶏肉の山賊焼が誕生したのは、1960 年代前半。 当時の本郷鶏肉は鶏肉の販売をしていました。そのお得意様には山賊焼を専門に扱っているお店もあり、山賊焼の隆盛を目の当たりにしていたのです。 しかし時代は男性優位社会。そんなお店に行けるのは男の人ばかりで、酒と山賊焼を一緒に飲み食いするのが定番でした。そこで、本郷鶏肉の創業社長は「女の人や子供にも山賊焼を食べてもらいたい」と考えました。そんな想いから、お惣菜として持ち帰り、家庭で食べられる美味しくて柔らかい山賊焼が開発されたのです。
当社の山賊焼は岩手県産の若鶏を使用しています。 肉を丁寧に伸ばした後、60 年にわたり受け継がれてきた自慢のタレをじっくりと揉みこみ、一晩寝かせてから片栗粉を付けて揚げています。タレには信州伊那の本醸造醤油と、同じく塩尻の清酒を使用し、昆布・鰹のだしやにんにくの風味を加えております。 だし、にんにくの香りとともに甘さも感じられる本郷鶏肉の山賊焼を、だんらんの食卓に加えていただくことを願っています。
pic:山賊焼
pic:山賊焼

本郷鶏肉の山賊焼は
オンラインショップでご購入いただけます。

山賊焼について

episode 01

山賊焼って何?

「山賊焼(さんぞくやき)」とは、鶏肉に醤油・酒・にんにくなどの調味料を揉みこんで味をつけ、片栗粉(または馬鈴薯でんぷんなど)をまぶして揚げた信州の郷土料理です。 鶏肉はモモ肉でもムネ肉でもササミでも OK。
鶏肉を大きく開いて伸ばすことで山賊らしい豪快な料理になり、にんにくの香ばしい香りも食欲をそそります。 言ってみれば大判の鶏唐揚げですが、この先を読み進めると単なる唐揚げではないことがわかります!

episode 02

名前の由来は?

① 元祖『山賊』説(塩尻)
山賊焼を考案したとされる高見安二郎氏(現「山賊」店主のおじいさま)が、親戚のおじさんから「お前の顔は山賊のようだ」と言われたことから名付けた。

②『河昌』説(松本)
河昌の創業者市川昌三氏は松本の山間稲核(いねこき)の生まれ。小さいころお祖母さんから「昔はこのあたりには山賊がおってな、山賊は人から物を(取り上げる)んじゃ」という話を聞いて、「山賊→取り上げる→鶏揚げる→山賊焼」と名付けた。

現在では、山賊焼の元祖は塩尻の「山賊」、松本での本家が「河昌」といわれています。

塩尻『山賊』にある「元祖山賊焼」の碑

松本『河昌』の山賊焼

episode 03

なぜ揚げるのに山賊「焼」?

山賊焼は 1940 年代に登場しましたが、そのころ油は貴重品で戦後にはなかなか手に入りませんでした。現在のようにたっぷりの油で揚げることは困難だったため、鍋に薄く油を引いて両面を揚げ焼きにしたことから山賊「焼」と名付けられました。

episode 04

正統派!山賊焼の食べ方は?

写真にもあるように、ほとんどの山賊焼はキャベツとセットで出てきます。丸のままの山賊焼にかぶりつき、キャベツで口の中をリセット、そしてまた山賊焼へ。正統派は、キャベツにもたれやドレッシングではなく塩を振りかけ、渋く豪快に食します。

episode 05

「山賊焼き」ではなくて「山賊焼」

普通に書くと「山賊焼き」とʻきʻのふりがなが入ります。しかし山賊焼の振興運動をする中で、塩尻や松本では「山賊焼」と表記が統一されました。

episode 06

塩尻の山賊焼と松本の山賊焼は違うの?どんなアレンジがあるの?

基本的な製法は共通していますが、松本スタイルでは生姜を入れることを強調しています。なんでも、松本の当時の副市長さんからの「遠方の自宅までバスで山賊焼を持ち帰るのに、にんにくのにおいが気になって……」というリクエストに応えて、にんにくを少なめにし、生姜を多く入れたことからだそうです。
また、塩尻・松本では山賊焼を扱う飲食店が多く、店によっては日本酒の代わりにワインを入れたり、信州みそを加えたり、信州そばのお店ではそばつゆを使ったりと、各店が工夫を凝らした山賊焼を提供しています。
尚、本郷鶏肉の山賊焼は、本来の醤油・酒・にんにくという基本の味を踏襲しています。

episode 07

山賊焼の誕生秘話と広がりは?

太平洋戦争以前は、現在のように日ごろから肉が食べられる状況ではありませんでした。その頃の信州では、カスミ網猟という小鳥を捕える狩猟が盛んにおこなわれており、特に11月頃になると、シベリア方面から能登半島を通って飛騨、木曽、そして松本平へ、ツグミなどの渡り鳥がやってきました。カスミ網猟で捕えたそれらの小鳥を、鳥屋場という山中に設えた小屋で焼き鳥にして客に提供する商売が繁盛していました。

戦前のカスミ網猟風景(松本市浅間温泉東山麓)

戦前のカスミ網猟風景(松本市浅間温泉東山麓)

その頃、前出の高見安二郎氏は家畜商を生業として、塩尻から木曽の山村を巡って牛や馬の売買をしていました。その中で鳥屋場の盛況を見聞きし、鳥(鶏)の可能性に着目。農家から卵を産まなくなった鶏を買い上げ、何か料理ができないか?と知恵を絞ったと思われます。そして戦後(戦前との説もあります)「山賊焼」が誕生します(*)。 当初の店名は『松本食堂』と言われましたが、山賊焼を専門に扱うようになって店名も『山賊』に改め、本格的に商売が始まりました。(*一説には、高見氏が兵士として中国戦線に渡った際に中国の鶏料理を知り、そこからアレンジをしたという話もあります。)
山賊焼は大評判となりました。あまりの盛況に、「酒を2合以上注文しなければ山賊焼は出せない」というルールもできました。この盛況に周辺の飲食店も倣います。同じような料理に海賊焼とかグローブ焼きという名前を付けて売り出す店も出始めました。 そのうちに山賊焼は塩尻から周辺部へと広がっていきました。松本の『河昌』や本郷鶏肉が山賊焼を始めたのもこの頃です。塩尻の名物が中信(松本、塩尻から安曇)一帯の名物へと広がったのです。
中信一帯に広がった山賊焼はその後、当たり前のメニューとして深く浸透していきました。地元の人にとっては、全国どこにでもある料理という認識だったと思います。 平成になり、日本中で B 級グルメが話題になりました。その地方独自の食文化を盛り上げようという動きです。
当初地元では、山賊焼は当たり前の料理ということで B 級グルメとしての注目を集めませんでした。新しい郷土料理を考えようという動きもありましたが、なかなか成功しません。
そんなときに、「山賊焼があるじゃないか!」と旗揚げをしたのが松本食堂組合青年部でした。そして松本で山賊焼が注目を集める中で、発祥の地である塩尻は「松本に山賊焼をとられてしまう!」と危機感を持ち、市議会でも紛糾。そんな状況に両市の有志や地元大学が乗り出し、いっそのこと「塩尻vs松本 山賊焼大合戦」というバトルにしてしまえ!ということで勢いがさらに加速し、発祥の地=塩尻、発展の地=松本、という構図が出来上がりました。
そのような動きがマスコミなどを通して全県、全国に報道され、「山賊焼」の名が大きく広がったのです。

山賊焼の歴史をより深く知りたい方は山賊焼の歴史の論文をご覧ください。

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